皮をむいて実そのものを味わう以前に、
何か言えることがあるかもしれない。
未熟で、分かることなんてひとつもないけれど、
甘夏をひんやり握る、
このおもたさを味わう、
顔を寄せて匂いをかぐ、
ことなら少し、できる。
ひすい色の皿の上に、ひとつだけ残ったおいも。
せいろで蒸した、くし切りのきたあかりだ。
または、図書館の階段を登った踊り場から見下ろすカラーコーン。
手放したイチョウ、ハナミヅキの、さくらの道。
こんなことが、急に輝き出す11月。
小説を読んでいる時、私はこの「見えた」瞬間を待っている。
*
先日、先輩の家の猫が死んだ。
20歳という大往生であったらしい。
私は彼女(めすだった)に会ったことがなかったけど、食いしん坊だと知っていた。
姉妹の喧嘩をなだめる役回りであることも。
彼女はもみじという名前だった。
「妹が先に上がって(2階に寝室がある)、その日は私12時近くまで起きていたの。先生は栄養剤を入れてくれたって言ってたけど、大丈夫かしらって思ってね」
立冬の日、先輩はこたつの話なんかをして、私はなんとなく猫のことを聞いた。
亡くなったのよ、と彼女は言った。いつ、と驚いて聞くとひと月も前だという。
「名前を呼んで撫でてあげたら、こうやって手を乗せてきたの。別れの挨拶だったのかもしれないわね」
私は「彼女は(最期だと)分かっていたのかもしれませんね」などと気が利かないことを言っていた。
すでに陽は落ちて、冷たい風が吹いていた。
先輩は微笑んだまま何も言わずに、すぐに来てしまうバスの時刻表を見ていた。
私たちはバスを降りて駅で別れるまで、何も言わなかった。
*
『つめたいよるに』は、江國香織の初期の短編集である。
私はこの本が好きで好きで、もう何度も読み返している。
なかでもこの『デューク』はとりわけよく覚えていた。
内容を知っている今はもちろんそうだと疑わないけれど、一番最初に読んだ時、私は最期まで、なぜかこの江國さんのギミックに不思議と気づかなかった。
見事な物語である。誤解を恐れずに言えばこんな〝ありきたり〟な物語が、どうしてこんなにも光るのだろう。私はだから江國香織が大好きなんだ。
私の先輩は、一緒に住む妹さんと、三兄弟の猫を迎える準備中とのこと。
昔コーヒースタンドでアルバイトをしていた時、ラテアートの練習と謳って、牛乳を一日一本泡立ててはシンクに流し、練習していた日々があった。
その時私は「こういうものなんだ」と思ってそれ以上考えることをやめたけれど、今思えばあれは、何か物凄いことが起こっていた。私は少しずつラテアートが出来るようになっていった。
きっかけはひょんなことだったけれど、いつからか動物性の食べ物をなるだけ摂らないようになった。牛乳が豆乳になって、ソーセージがちくわになった。魚と鶏卵はありがたく戴く。ペスカタリアンというらしい。今日まで、あの日の後ろめたさを私はどこかで感じ続けていたのかもしれない。
-人間が動物を利用することを否定しない 植木美希
その広さや繋がり、網目の際限のない大きさに、私はふと畏敬する。
ときどき恐れおののいて、じゃあどうなるんだろうこのままじゃこの星は、と思って私が一週間溜めたプラスチックごみの量に閉口する。
もう考えない方がめんどくさいなと思う。
―じつは「動物福祉」は、そのような人間の感情に左右されず、人間の保護管理下にあるすべての動物に快適な環境を与えましょうという考え方です。 町屋奈
この本は「ヴィーガンになれ」とか「ペットを飼うな」とか言ってるんではありません。
いつか見たテレビで、タクシーの運転手をしていた黒人の女性が「子どもが生まれて、私は夢や学校を諦めたけれど、今はこの職場が学校なの」と多分こんなようなことを言っていて、すごくいい表情をしていたことをいま思い出した。
お肉を食べるのが好きな人、動物と一緒に暮らしてる人、そうでない色んな人に、この本を読んで欲しい、そう思いました。
スモークブックス店頭でも販売中。
*出演 ふくっくるー by めがてんあにまるず
Photo by Masumi Kuba
植木美希 田中亜紀 町屋奈
2024/工作舎
5分。
これは私が『バングローバーの旅』を読み終えた時の体感時間である。
実際はたしか、1時間近く経ってたんでびっくりした。
「おっもろ······」と思った。
そういえば昔『ノルウェイの森』を読んだ時もそんな感じだった。
「なんだこれ」と思いつつ読みやすい、読んだことないこんな話。
···と気づくと緑色になっていて、あれ全部読んじゃった。
時計を見てエッと思った。
今日が明日になっていた。
もちろんそれがいいとか悪いとかが言いたいんではなくて、
開くたび眠くなるそれに「ヒーヒー」しながら、ひと月くらいかけてやっと読み終わる名作もある。
そういうのはしみじみする。
あー読んでよかったなあ。諦めなくてよかった。
何度も見た表紙にもなんだか愛着が湧く。
すぐ読んじゃうのとは違ったしみじみ。
朝目が覚めた時、ある曲のフレーズが耳に残ってる時がある。
これなんだっけ、でもここが好きなんだよな、と私。
同じことが小説でもある。
強烈に美しい場面が突然何かの拍子にぽん、と出てくる。
乗らないバスが目の前で丁寧に停まった時、腎臓のかたちをした石の手触りをまた思い出していたり、
夕方駅で別れた時、とぱあず色のレモンががりり、と鳴ったりして。
このひとの言葉はいいな、と思う。
第三十二回芥川賞を取った『プールサイド小景』を初めて読んだ。
それでびっくりした。
やわらかい輪郭が、光を受けて鋭く光る。
晩年に書いたエッセイ『メジロの来る庭』を読んだ時と同じみずみずしさ。
それで、えばってるところがまるでない。
こういうことって可能なんだろうか、と思ったりする。
このブログは、
「スモークブックスで手に取ることができる本でエッセイを書く」
というのをいちおうモットーにしているので、読んだ後でこの本欲しいな···というのが難点だ。
欲しい、でも届けたい。
そんなことって、ちょっと素敵なことだと思う。
古書は一点物だものね。
とりあえず、読み終わってない本がこんなに積んであるのに、新しい本を買うのを、頑張ってやめます。
「わたりおわったら また もとに もどります」
そうかーと思う。
渡り終わったらまた元に戻るんだ。
この時のはしたろうの顔もちゃーんと「もとにもどる」顔なのだ。
「はしのはしたろう」は、ピンク色で青い足の生えた、なんと橋だ。
橋が主人公。
彼は「うーん」とからだを伸ばして、
こっちとあっちにからだを掛けて、
みちみちで困ってる動物たちを助けてくれる。
私が特にお気に入りなのは、
どったんどったん走ってきた「やま」が
「わたしは きょうからはしまである。やまではなくて しまであーる」
って言いながらざっぱーんと海に入っちゃうところだ。
絵本のいいところは、少し考えれば
「バカだよな」「でもありえないよな」と思うことを
確とやり遂げてしまうところ。
ちょっとも疑わず、堂々として。
かめさんや、かばくんが、きもちよさそうにねむっているところを
「じゃまだな」「おきてくれ」とか言うんでなく、
きもちよく寝かせたまま「うーん」とのびる。
私も「うーん」と唸る。
で、はしたろうは十全に活躍するんですね。
いやー、そうなんだ。
面白いんだけど、すごいなあ。
このあいだ、著者であるつぼいさんにお会いすることができた。
ともこさんいわく、スモークブックス中山店の時からのお馴染みさんなんだそうだ。
つぼいさん、はしたろうに引けを取らず、とてもとてもやさしい人だった。
スモークブックスで開催中の「はしのはしたろう絵本原画展」は8/18(日)まで。
写真を見て、音が聞こえるわけじゃない。もちろん比喩としてはそうだ。「漣が聞こえるようだ」「彼らの会話が手に取るようにわかる」でも実際は、何も鳴らず動かず、今ここにあるのは窓をうつ6月の雨と、扇風機の風の音だけ。
無意識のうちによく計算され、ないような矜恃をバカに気にして、たくさんの目や、誘惑するコンサバティブな光。そんな写真が巷の海にあふれてる。いいものも、よくないのも多いので、水面がゴロゴロして、浸したはずの足ゆびが見えなくなる。
あらゆる写真は
私たちが死すべきものであることを想起するよすがとなる。
〈中略〉
写真を撮ること
ーーよりふさわしくは、写真を撮ることを「許す」ことーーは、
真実であるには美しすぎる。
次のように言ってもかまわない。
美であるには真実すぎる、と。
写真は今日まで、撮られて撮られて撮られまくって、ここにある。この海を漂っているとふと、私がもうずっと前から忘れていて、今やっと思い出したみたいな写真に突然出会うことがある。それは見たこともないような派手な色の椅子、行ったことのない国の知らない人のまなざし、でも私、あなたを知ってる。一枚、二枚、その時はもう、大きなものに取り込まれている。
それが、著者の言う「物語」である。
私は写真を、馬鹿なくらい一瞬の小さな空間の、信じられないくらいの温度を信じてる。
それにしても、いい写真を撮るよなあ。
ともこさんが「パーフェクト・デイズ面白かったよ」というので、さっそく近くのレンタルビデオ屋さんに行った。「新作だけど7泊8日」の棚には〜···役所さんが居ない。おや、と思い調べてみると、DVDのリリースは7月で(今日は5月でした)、しゃあない私は「バビロン」と12回目くらいの「ハウルの動く城」を借りて帰る。夜、梅雨が近い風が吹いてる。
人はそれを「時代遅れ」だとか「時間のムダ」と言うかもしれない。私も大賛成である。だいいちホントは借りたかった「カポーティ」は貸出中だったし、当店「ゴーストワールド」の取り扱いはありません。今はみんな、スマホなんかで見るんですね。
その帰路で、普段は入らないコンビニに入った。で、ワイン買おって思った。思いがけず。私は酒も煙草もやりません。エートこれは「バビロン」を見ながら愉しもうと思ったからで、パキッと開けるワンカップの白と大好きなポテチを買って、煌々と光る箱から夜に出ると、低い鳥がスっと隣りの家の庇に入った。つばめだ、と思うとすぐにあの鳴き声がここまで届いた。うまれたんだ、と思うと口元がゆるみ、一日働いてくたくたの体に、まったく理論に反した回復が訪れるのを私は見る。
この文章は、無駄だったんでしょうか。
そんな文学や詩、写真が撮りたくて、私はここのところむかむかとしていた。むかむか、といっても怒りや衝動なんかじゃなく、その逆といってもよかった。つまり私はかなしくて、自分でも驚くほど静かに座っていた。
私はまあそうねアナクロだが「ぼくの伯父さん」にはとうてい敵いっこない。
ルックスや知識の多さよりも「最強なのはセンスがいいってことじゃないかなー?」*とあたしンちのみかんが友人・しみちゃんに言っていて、好きだなあと思った。
よい本は決して古びないのだ。造本もなおよし、である。
私は白ワインが好きかもしれないな、とはじめて知った5月でした。
スープの中に、チーズを入れるか入れないか。
雨が時々止むので、傘を持っていくかどうか。
縞々か、赤いのにするか靴下。
抜け殻の絹靴下を春の樹に 澁谷道
「アタシ1分の猶予もないんです」という。そうよ、と遠くで誰かが同意する。声の方は見ないわざと。においで分かる。何かが私を誘惑している。そう、それは絶対。そんなことを今ここで、ためつすがめつしたいと思う。
花冷えの櫛落ちてリノリウム滑る 澁谷道
ハッとするほどつめたい、かけがえのないさびしさ。手を伸ばして触れると、にわかに体温を帯びてく。そう感じるのはあなたそのもの。「アタシ、ここは死ぬほど楽しい」そうですか、と言う私の手は震えている。
冬陽萎え樹は樹のかげを見失う 澁谷道
声がずっとそこにあるというのはなくて、遠くこだましたり、電話口でぶつっと切れたり、故意に黙ったりする。「あ、今なにか分かっ」今すぐ忘れる。ここはいつも記憶の中の海に似てる。ぬるく、濁り、幼く、しょっぱくて、触れたい。そういうところに潜んでる、ぞっとするほど美しいもの。
花冷えのテレビドラマ長い無声 澁谷道
手袋が鏡の中で花を買う 同
一枚の鏡、一日の隔たり。「そういえばアタシたちどこかでお会いしましたっけ」私たちの隔たりはどうしようもなく確実で、救いようもなく薄いから。
訪問者なし香水の霧乱射して 澁谷道
春海を女が軽く軽く去る 同
それが引き潮に乗って海へ出る様に、至極自然に句集を出してしまつた、その事に、ある衝撃を感じます。
(中略)
嬉しくても悲しくても傷つく様な生き方とは「嬰」を出すことで別れたいと思います。
―あとがきより
黙って語っている夢の果ては真 桜那恵
駅に向かう途中、めがねを忘れたことに気がついたので、引き返した。私の目は良くはないが、悪すぎるということもないので、日中めがねなしで過ごすことも多い。「目によくない」ありがたいご意見はとりあえずスルーします。掛けなかったり持ち歩かない日なんかもある。でも今日はちがう。『生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』の初日。この日を楽しみにしてたんだ。
家に着いてすぐ、机の上のクリアファイルが目についたので「お、そうそう、パンフレットを持ってかえるのにいるんだよね」とカバンにしまう。あ、やっぱりコッチかも。白い帽子に被り替える。悩んで結局同じ靴を履く。電車の時間が気になるので急ぎ家を出る。
駅のホームで電車を待っていたら「え···?」と驚いた。めがね忘れた。もう一度言います。めがね。忘れた。愕然とする。今私めがね取りに戻ったんだよね?カバンの中をもう一度ようく探す。あれクリアファイルが2枚入ってる。そうだ昨日のうちに忘れないようにって入れたんだ。めがねは?ない。まあ?見えないっていうこともないし?···あれ、よく見るとこの帽子···前の方がよかった気がする。(チーン)
···下唇を突き出したまま国立近代美術館へ。とぼとぼ展示室に入ると『萬朶譜 梅の柵』に出合う。ボヤけてよく見えないから張りつくようにして見る。それで分かった。私はめがねを忘れたんじゃなくて、忘れることを望んだのだ、と。
一体どういうことか?
この展覧会で1番見たかった傑作『釈迦十大弟子』を前にして私は考えていた。棟方は弱視だったため、デッサンの線すら思うように描けなかった。ある時、川上澄生の板画に出合う。その時、棟方は板画の道にゆくことを半ば運命的に感じていたに違いない。たぶん。
オーこれが『釈迦十大弟子』。これが世界のムナカタ。
棟方の仕事は雑誌や本の装幀にも及んだ。傑作はひとつやふたつではない。私は谷崎潤一郎の小説の『鍵板画柵』のショーケースの中をひょいと覗いた。それでびっくりしてしまった。
そうなのだ。棟方作品の凄い所は、そこである。
私は呑みこまれる。線に黒にそして板画に、私は喜んで呑みこまれる。
ハッと気がつくと私はめがねの前に立っていた。
そう。彼と板画を繋いでいた、あの素晴らしいぶ厚いめがねの前で。
YONA Megumi
絵は芸術家としての矜恃を持ち、それでいて子どもみたいに無邪気だ。
『ヴァンス礼拝堂』のあれ!てててててって、どうやったってにこにこしてしまう。ああユカイ。
いのくまさんの言うマチスの「描いて描き死ぬ」。ストイックな彼であって、りんごひとつに気の遠くなるほどデッサンをする。そらで描けるようになるまで描く。苦しい日もあったろうと思う。でも楽しんでいる、というのがいい。
いのくまさん「彼の作品に見る単純化は、つき進めば結果として抽象形態にたどり着く運命にある道である。
しかし、なぜか彼はその道を急ごうとはしないのである」
マチスの絵は日本人に受け入れられやすいという。それは彼の絵が奥行きというリアリズムの効果よりも、対比や横の広がりの効果に重心を置いているからである。
いのくまさん「時代に鋭角な神経の持ち主であるから、決して近代の動きを見逃しはしない。彼の全皮膚の表面までも敏感に現代を感じ取っているに違いない。
〈中略〉
そしてまた『お前のデッサンはうますぎる』とも言われた。この一語は実に私はつらかった」
-マチスと抽象形式
マチス覚書 美術手帖 1950年4月より
マチスは急がなかった。そして止まらなかった。
今月から始まる国立新美術館の展覧会「マティス 自由なフォルム」。
スモークブックスにあるいのくまさんこと猪熊弦一郎、マチスのカタログもぜひ合わせてご覧ください。
YONA Megumi
最近読んだ本の中に、ユジノサハリンスクと豊原が出てきた。
ふたつは同じ場所を指すのだが、時間が違っていた。ひとつは林芙美子のもので、もうひとつは東京するめクラブのものだ。どちらも紀行集で思いがけず出会った。きもちのよい旅だった。
自分は朝鮮人で、ロシア人でもあって、日本人であるというのは一体どういうことか、私にはうまく想像ができない。サハリンはたぶん寒い。つめたくて冬が深い。朝、蛇口をひねると水がちぎれるようにつめたくなった日本の12月。サハリンは、ここに住む私にはうまく掴めない。
写真家・新田樹の撮るその場所は、どういう訳か「そこ」に感じる。遠いサハリン、でもそこにある。「ここ」にはないだって、サハリンはここから遠いでしょう。この遠さ。これは写真家の力量に他ならない。
写真そのものは静かだ。それは憚らず冬の静けさ。雪解けがせせらぎを孕むように、著者の言葉が添えられている。
本書はスモークブックスの店頭で、お手に取ってご覧下さい。
YONA Megumi
Sakhalin 新田樹
2022
夏がきらいなのに、夏の記憶ばかりが美しいのはなぜだろう。
夏がきらいです。
私は暑がりだし、それに夏の命はすごく美しいので、春のことなんてすぐに忘れてしまうから。
イギリスの夏は短いという。
日本の夏はやたらと長いですよね。
束の間の秋に、夜の木場公園を歩いて思ったこと。
冬至に向かう電燈で遊ぶ子どもの声とボールの音。
犬が踏む落ち葉の音と、軽装の女と電話の声。
そういえば、家の庭にあったハナミズキの葉が燃えるように色づく秋を、私は好きだった。
あの色。
どうしてこんな大事なことばかりを忘れてしまうのだろう。
「みどりの王国」を読み終わったあと、私はスツールの上でしばらく本を抱きしめていた。
さまざまに錯綜した、光ある庭を思い浮かべて。
YONA Megumi
戎康友 鈴木るみこ
2023
ちょっと前、ある雑誌のバックナンバーをウェブアップしてた時、もうなん度も目にした写真家の名前が目に入ってきて
「まーチョットみてみっか」
とページをめくった。
私はいったい、今まで何を見ていたんだろう、と思いました。
どれも同じだ、といつの間にか私のどこかは思うようになっていた。
私たちは何か発見に対して「これは時間がかかるな」と思うがはやいか「知ってる知ってる」で過ぎてしまうことが多すぎる。観念的な急を要して。
それに対して「ああ、アレね」と興味のないフリをすることがまともであるというていを取る人も少なくない。
怖いのです、今日まで知らなかったことが。知らなかった時間が。
いま自分が感じたことを、ないがしろにはしていませんか。
いま一度、胸に手を、当てなくたっていいから考えてみるのはどうでしょう。
これは路傍の書店員からの、ちいさな提案です。
そういう出合いを、私はもうすこし待ってみようと思います。
YONA Megumi
あれ、私だ、とおもう。
すばらしい抽象画に出合う時、私のどこかはいつもそう思っている。
あれ今こうまんだって言いました?
またこれは違う、ということだけが分かるということがよくある。正解がわからないのに、これではない、ということだけを確信している。
ええ高慢でいいです。
「これから現前してくる世界の予感」小松崎広子
ごくっと息をのむ。
この感覚は、おそらく私たちが生まれるずっと前のこと、ひいては人間なんかが生まれる前から、ずっとそこに、あらわれていたのではないか。
そう、ここは静かだ。
しずかで、まるであなたみたいで、やすらぐ。
私は黙っている時の方がおしゃべりなのだ。
YONA Megumi
鳥が好きです。
彼らのこびないよそおいが大好き。
例えば青い鳥で有名なカワセミなんかもそうですが、彼らの青い羽根は青い色素をもたない。*
なのに青くきらめくなんて、ほんと夢みたいに美しいと思いませんか?
夢で描く、ということをGernerは知っています。
これはシギで、こっちはヒタキ?これはどう見てもアオサギだけど、でもこっちは?
空想と現実のはざまで、彼は得意のデザイン性を持って楽しく描いてる。鳥たちがくわえてるものや、足元に落ちているものもなんだかたのしい。
鳥はみんな、みんな違う。なのにみんな鳥。
鳥は自身の色の素晴らしさ、フォルムの愛さらしさ、声の魅せ方をよおく知っています。
だからこびない。でも決して卑下しない。
そういう本質的な美しさみたいなものを、Gernerはよく知っているし、私たちにそっと教えてくれます。
次作の「Chiens」もたのしみ。
*構造色と言われるもの。光の角度や波長の干渉によって私たちの目には青く見えている。
YONA Megumi
Oiseaux Real And Imaginary Chromatic Inventory Jochen Gerner 2021
「どうしてこの作品が、こんなにも有名で、こんなにも多くの評価を得られるんですかね」
おそらくは半世紀は経ったであろうポップアートについて、私はバカみたいに真面目に聞いた。
私はそれが、聞くのにはいくぶん遅すぎていたし、拙劣な質問なんだと分かっていたので、半端ににやついていたんだけれども、目を合わせた店長はくすりとも笑わない。彼は人の真摯について笑わない。
「作品自体しかりこれを作品だ、これは僕の作品です、って言いきってしまうところに、何か説明のできない凄さがそこにあるんだよ」
長いあいだ、うじうじといじり回していたある問いについて、突破口がすこし、でもその隙間から確実に見えた、と思う瞬間でした。
例えば彼の「カメラワークス」。
そうこれは写真作品ではあるけれど、あすこを繋げたり繋げなかったりして、またひとつの作品を生んでいる。
ココにこの写真を持ってこないでこれをコッチに持ってくるんだ、というところには驚いてしまうし、私だったら足がすくんでしまうような見返りのない確信がこの作品にはある。笑ってしまう。笑ってしまってやられた、と思う。
この夏にはじまった東京都現代美術館の展覧会、ぜひ暑いうちに行きましょう。ぐらぐらとゆれる青い水面の、プールにも行きましょう。
YONA Megumi
この世の万象はすべてメタファーだ、と彼は書いてきた物語のあちこちで言う。だから私は読めば読むほど二重の視線で物語を読んでいることに気がつく。
私と、私を見ているわたしだ。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』にハッとした人間は一体どのくらい居るんだろう?と私は静かに考えてみる。今は夜なのだ。
そのうちのほとんどは、肩に乗せられた手に気づかなかっただろうな、と思った。それから短くはない歳月が流れた。またかつて振り返ったひとはその顔をすっかり忘れていて、首をひねってまた前を向いた。あの、という私の声が流れてしまった。眠くなってきたから欠伸をした。それでよかった。歩いてゆくひとの気配が遠のく。
私が置いた背表紙を見てムラカミハルキ、と彼女は呟く。
「わたしもよく読んだよ、若いころ。なんにも覚えてないんだけどね」
あなたは言う。
間違った部屋のドアを開けてしまった人が、へたな言い訳をするみたいに。
YONA Megumi
静かで無邪気、真実でみずみずしく、幼くて同時に老成している。
これは真実の虚言だ、と思う。
その言葉をことばとして受け取る前に私は何か気づいている。この揺れを否定しないで、と私のどこかが懇願するように言う。その感情の揺れは、私の場合なみだになって現象になる。
それは限りなく祈りに近い。
神話学者ジョーゼフ・キャンベルが言った「創造的な孵化場」がまさにここにある。
谷川俊太郎は著書のどこかで、自作に対してはいつまでたっても客観的になることができない、と零していたことをふと思い出す。
客観的になれない日々が、どうしようもなく私を作っているのだ。
どうもこの辺りに、詩人・谷川俊太郎の孤高さがあるような気がする。
YONA Megumi
詩人は「んガッと掴んでぱっと放す」ということに長けています。
最近は何でも手放せ、と言いますが「手放す」とは「んガッ」と掴めた人だけが出来る、ということも覚えておく必要があります。
未来とは 過去の方角から走ってくるのだ
物凄いことばに出逢うと「え?何コレちょっと信じられない」と思います。それがどういう意味か、どんな真実が隠されているのかという以前に私は茫然と恍惚と、立ちすくみます。
つまり 死も
生誕の方角から
路線『花のもとにて 春』より
吉原幸子の詩は、もっと自由であっていいということを思い出します。そうだここに広い場所があった、と私はそっと微笑む。
今夜はよく眠れる気がする。
YONA Megumi
ああ今絶対撮り逃した、と思うことがよくあります。
今日私はそれで、撮りたい瞬間を二度逃した。カメラを持っていなかったんです。
2分後、いや明日になっても私は後悔しているだろうと思いながらとぼとぼ通り過ぎます。
写真は決定的な美しさを提供してくれる反面、それは残酷なまでに刹那的です。
そしてそれが刹那的であればあるほど美しいとまあこういった具合です。
白黒写真はなんというか「ずるいな」とまず思います。だってずるい。あんなにものの陰影の効果を最大限に発揮できるものなんてないでしょう。
しかしこれが色づくとどうか。
これは赤だという事実よりも、赤なんだと想像するこの逡巡が美なのではないでしょうか。
そこにもブレッソンの写真の魅力がある気がしています。
YONA Megumi
Landscape Henri Cartier-Bresson アンリ・カルティエ=ブレッソン/1999
「出会うことを恐れすぎてた」
この写真集を開いてまず思ったことはこうだった。
とても上手い写真があなたの目の前にあります。構図や光の入り具合、並ぶ順番も抜かりない。その作風は昨今のニーズにも合っているようです。
でもなんで?今の私にはまったく響いてこない。
そういう写真は、私の内奥にまで触れてくるものよりずっと多い。当たり前である。しかし焦ってはいけない。
写真とは波長が合うかどうか、これに尽きるのではないでしょうか。
波長が合うあの心地よさ。ああだから出会ってしまったのか。出会ってしまったから波長が合うのか。私は出会うことを恐れすぎていたのだ。
あなたがそこで写真を撮っていてくれてよかった。
YONA Megumi
私がいいなと思う写真は、あ、この人は写真でなければならないのだな、と感じられる写真です。
これは詩だったり、小説だったり絵画でも何でも言えるのだけれども、他でもない写真でなければならなかった!という写真家の撮る写真は、かなりくるものがある。それが稚拙であれ、未完成であれ、例え夭折であっても。
彼は写真を撮るしかない。
それはやがて鋭い直感、技術だったりに必ず導かれる。私のような物書きの端くれはそう信じてやまない。
YONA Megumi
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