
私にはじめてコーヒーの美味しさを教えてくれたあの人は、今どこで何をしているんだろう。
感傷的になりたいわけではない。
でもただ確信できるのは、あの人が今朝もコーヒーを飲んだということだ。
この不確かで欠落的な確信こそが、たとえば芸術において美しい。
美しい写真を前にした時、わたしの背筋はぴんと伸びる。
この写真が一番かっこいいと確信するのは本当に難しい。
それはとても主観的で、押し付けがましいんじゃないかという疑問に囚われるから。
そして実際に、たいしてかっこよくない写真もたくさん知っているから。
アートとしての写真を眺めているとき、いかにも商業的な写真を見ると舌触りが軽く感じる。また逆も然りで、商業的な写真が求められる場面で写真家たちの体温を感じると興ざめする。これはいったいどういうことだろう。
今の時点で、でも私が話せることはここまでだ。
もっと写真についての本が読みたい。
おーかっこいい本。かっこいい写真集が最近の本屋にはほんと多い。
しかし製本を越えた写真を撮らなければならない、と思う。
昨日の夜開いた写真集が、今日私の中でページをめくっている。
読書とは、まさに今起きているのではないか。
読んでいた本を閉じ、開いた扉から人ごみを分けて、人々の呼気を感じながら混じり合う階段を降りている、この瞬間に。