プラハの春に挟まれた指 ような恵のコラム 甘夏ためつすがめつ26こめ

その人があそこに立っていた時のあの感じというのが欲しいので*

──舟越桂

 

彼の彫刻が人という器から溢れれば溢れるほど、人間のにおいがするのはなぜだろう。

 

こわい顔をしたスフィンクス、肩から掌が咲く、ひれのようなものを金具で留めた、具象彫刻の線を越えた作品たち。

 

東京都現代美術館ではじめて舟越桂彫刻を見た時「そこにいる」と思った。

 

本の装丁でよく知っている、独特の気配を漂わせる表情の人。

近づくと青っぽいと思った。彩色の色ではない。

たしか『遅い振り子』だったと思う。

その時は楠だと知らなかったけど、よい香りがしたことを覚えている。

 

わかるよ、と思った。

もちろん彫刻は喋らない。

喋らないけど、言葉ではない何かで受け取った気がした。

そして、その瞬間にわからなくなる。

 

 

私にはここに「ある」ことがどうしても許せないと思うことがある。

ただ許せなくて、具合が悪くなることもあった。

なんかわかる、と思ってくれる人はいるだろうか。

 

そういう時、私のどこかは遠い場所に行こうとする。相談もなしになんで、当然つかれる。行ってしまうのは簡単、だけど帰り道が分からない。だから本を読んだり、こうやってものを書いたりする。取り戻すために。何をだろう?何をそんなに焦っているんだろう。

気づくと私はここにいる。

大理石の瞳がしずかに佇んでいる。

 

ネガティブも、ポジティブにも属さない。

それでいて個人的体験であることを否定しない。

 

人間は形あるだけで美しいのに、そんなことをまた忘れていた。

個人はみな絶滅危惧種という存在

舟越桂

2012年第2刷

集英社

 

* 「新日曜美術館」(NHK・2003年5月26日)より

 

ような恵