
その人があそこに立っていた時のあの感じというのが欲しいので*
──舟越桂
彼の彫刻が人という器から溢れれば溢れるほど、人間のにおいがするのはなぜだろう。
こわい顔をしたスフィンクス、肩から掌が咲く、ひれのようなものを金具で留めた、具象彫刻の線を越えた作品たち。
東京都現代美術館ではじめて舟越桂彫刻を見た時「そこにいる」と思った。
本の装丁でよく知っている、独特の気配を漂わせる表情の人。
近づくと青っぽいと思った。彩色の色ではない。
たしか『遅い振り子』だったと思う。
その時は楠だと知らなかったけど、よい香りがしたことを覚えている。
わかるよ、と思った。
もちろん彫刻は喋らない。
喋らないけど、言葉ではない何かで受け取った気がした。
そして、その瞬間にわからなくなる。
私にはここに「ある」ことがどうしても許せないと思うことがある。
ただ許せなくて、具合が悪くなることもあった。
なんかわかる、と思ってくれる人はいるだろうか。
そういう時、私のどこかは遠い場所に行こうとする。相談もなしになんで、当然つかれる。行ってしまうのは簡単、だけど帰り道が分からない。だから本を読んだり、こうやってものを書いたりする。取り戻すために。何をだろう?何をそんなに焦っているんだろう。
気づくと私はここにいる。
大理石の瞳がしずかに佇んでいる。

ネガティブも、ポジティブにも属さない。
それでいて個人的体験であることを否定しない。
人間は形あるだけで美しいのに、そんなことをまた忘れていた。


