さびしい記憶が思い出せない ような恵のコラム 甘夏ためつすがめつ22こめ

ひすい色の皿の上に、ひとつだけ残ったおいも。

せいろで蒸した、くし切りのきたあかりだ。

 

または、図書館の階段を登った踊り場から見下ろすカラーコーン。

 

手放したイチョウ、ハナミヅキの、さくらの道。

こんなことが、急に輝き出す11月。

 

小説を読んでいる時、私はこの「見えた」瞬間を待っている。

 

*

 

先日、先輩の家の猫が死んだ。

20歳という大往生であったらしい。

 

 

私は彼女(めすだった)に会ったことがなかったけど、食いしん坊だと知っていた。

姉妹の喧嘩をなだめる役回りであることも。

彼女はもみじという名前だった。

 

「妹が先に上がって(2階に寝室がある)、その日は私12時近くまで起きていたの。先生は栄養剤を入れてくれたって言ってたけど、大丈夫かしらって思ってね」

 

立冬の日、先輩はこたつの話なんかをして、私はなんとなく猫のことを聞いた。

亡くなったのよ、と彼女は言った。いつ、と驚いて聞くとひと月も前だという。

 

「名前を呼んで撫でてあげたら、こうやって手を乗せてきたの。別れの挨拶だったのかもしれないわね」

 

私は「彼女は(最期だと)分かっていたのかもしれませんね」などと気が利かないことを言っていた。

すでに陽は落ちて、冷たい風が吹いていた。

 

先輩は微笑んだまま何も言わずに、すぐに来てしまうバスの時刻表を見ていた。

 

私たちはバスを降りて駅で別れるまで、何も言わなかった。

 

*

 

『つめたいよるに』は、江國香織の初期の短編集である。

私はこの本が好きで好きで、もう何度も読み返している。

なかでもこの『デューク』はとりわけよく覚えていた。

 

内容を知っている今はもちろんそうだと疑わないけれど、一番最初に読んだ時、私は最期まで、なぜかこの江國さんのギミックに不思議と気づかなかった。

 

見事な物語である。誤解を恐れずに言えばこんな〝ありきたり〟な物語が、どうしてこんなにも光るのだろう。私はだから江國香織が大好きなんだ。

 

私の先輩は、一緒に住む妹さんと、三兄弟の猫を迎える準備中とのこと。