ひすい色の皿の上に、ひとつだけ残ったおいも。
せいろで蒸した、くし切りのきたあかりだ。
または、図書館の階段を登った踊り場から見下ろすカラーコーン。
手放したイチョウ、ハナミヅキの、さくらの道。
こんなことが、急に輝き出す11月。
小説を読んでいる時、私はこの「見えた」瞬間を待っている。
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先日、先輩の家の猫が死んだ。
20歳という大往生であったらしい。
私は彼女(めすだった)に会ったことがなかったけど、食いしん坊だと知っていた。
姉妹の喧嘩をなだめる役回りであることも。
彼女はもみじという名前だった。
「妹が先に上がって(2階に寝室がある)、その日は私12時近くまで起きていたの。先生は栄養剤を入れてくれたって言ってたけど、大丈夫かしらって思ってね」
立冬の日、先輩はこたつの話なんかをして、私はなんとなく猫のことを聞いた。
亡くなったのよ、と彼女は言った。いつ、と驚いて聞くとひと月も前だという。
「名前を呼んで撫でてあげたら、こうやって手を乗せてきたの。別れの挨拶だったのかもしれないわね」
私は「彼女は(最期だと)分かっていたのかもしれませんね」などと気が利かないことを言っていた。
すでに陽は落ちて、冷たい風が吹いていた。
先輩は微笑んだまま何も言わずに、すぐに来てしまうバスの時刻表を見ていた。
私たちはバスを降りて駅で別れるまで、何も言わなかった。
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『つめたいよるに』は、江國香織の初期の短編集である。
私はこの本が好きで好きで、もう何度も読み返している。
なかでもこの『デューク』はとりわけよく覚えていた。
内容を知っている今はもちろんそうだと疑わないけれど、一番最初に読んだ時、私は最期まで、なぜかこの江國さんのギミックに不思議と気づかなかった。
見事な物語である。誤解を恐れずに言えばこんな〝ありきたり〟な物語が、どうしてこんなにも光るのだろう。私はだから江國香織が大好きなんだ。
私の先輩は、一緒に住む妹さんと、三兄弟の猫を迎える準備中とのこと。