写真を見て、音が聞こえるわけじゃない。もちろん比喩としてはそうだ。「漣が聞こえるようだ」「彼らの会話が手に取るようにわかる」でも実際は、何も鳴らず動かず、今ここにあるのは窓をうつ6月の雨と、扇風機の風の音だけ。
無意識のうちによく計算され、ないような矜恃をバカに気にして、たくさんの目や、誘惑するコンサバティブな光。そんな写真が巷の海にあふれてる。いいものも、よくないのも多いので、水面がゴロゴロして、浸したはずの足ゆびが見えなくなる。
あらゆる写真は
私たちが死すべきものであることを想起するよすがとなる。
〈中略〉
写真を撮ること
ーーよりふさわしくは、写真を撮ることを「許す」ことーーは、
真実であるには美しすぎる。
次のように言ってもかまわない。
美であるには真実すぎる、と。
写真は今日まで、撮られて撮られて撮られまくって、ここにある。この海を漂っているとふと、私がもうずっと前から忘れていて、今やっと思い出したみたいな写真に突然出会うことがある。それは見たこともないような派手な色の椅子、行ったことのない国の知らない人のまなざし、でも私、あなたを知ってる。一枚、二枚、その時はもう、大きなものに取り込まれている。
それが、著者の言う「物語」である。
私は写真を、馬鹿なくらい一瞬の小さな空間の、信じられないくらいの温度を信じてる。
それにしても、いい写真を撮るよなあ。