スープの中に、チーズを入れるか入れないか。
雨が時々止むので、傘を持っていくかどうか。
縞々か、赤いのにするか靴下。
抜け殻の絹靴下を春の樹に 澁谷道
「アタシ1分の猶予もないんです」という。そうよ、と遠くで誰かが同意する。声の方は見ないわざと。においで分かる。何かが私を誘惑している。そう、それは絶対。そんなことを今ここで、ためつすがめつしたいと思う。
花冷えの櫛落ちてリノリウム滑る 澁谷道
ハッとするほどつめたい、かけがえのないさびしさ。手を伸ばして触れると、にわかに体温を帯びてく。そう感じるのはあなたそのもの。「アタシ、ここは死ぬほど楽しい」そうですか、と言う私の手は震えている。
冬陽萎え樹は樹のかげを見失う 澁谷道
声がずっとそこにあるというのはなくて、遠くこだましたり、電話口でぶつっと切れたり、故意に黙ったりする。「あ、今なにか分かっ」今すぐ忘れる。ここはいつも記憶の中の海に似てる。ぬるく、濁り、幼く、しょっぱくて、触れたい。そういうところに潜んでる、ぞっとするほど美しいもの。
花冷えのテレビドラマ長い無声 澁谷道
手袋が鏡の中で花を買う 同
一枚の鏡、一日の隔たり。「そういえばアタシたちどこかでお会いしましたっけ」私たちの隔たりはどうしようもなく確実で、救いようもなく薄いから。
訪問者なし香水の霧乱射して 澁谷道
春海を女が軽く軽く去る 同
それが引き潮に乗って海へ出る様に、至極自然に句集を出してしまつた、その事に、ある衝撃を感じます。
(中略)
嬉しくても悲しくても傷つく様な生き方とは「嬰」を出すことで別れたいと思います。
―あとがきより
黙って語っている夢の果ては真 桜那恵