スーパーの青果コーナーで、レモンが籠の中でごろんごろんと山積みになっていた。
足を止めて、その中の一顆を手にとる。
――つまりはこの重さなんだな。――*
絵具のチューブから今出したような色、鼻にやる遠い香り、結核をはらんだ手で握る、ひんやりとしたこのかたち。
小説をひとつの芸術としてはじめて認識したのは、たぶん高校生の時だった。
陳腐だしありきたりで恥ずかしいんですが、授業の中で読んだ梶井基次郎「檸檬」の一文が、今思えば、すべての始まりだったのかもしれない。
当時の私にとって小説とは、起承転結、秩序維持、で最後に何か大きな「予想外」がザッパーンとかっさらってくもの。新しい価値観。教えてくれ「今に変わるはずだ」を、そう思いながら、ほとんど願いながら終末に進んでゆくもの、だったのに。
(重さ?重さって、もしかしてこのレモンの?)
うっそこれが小説?と笑おうとしたその時、奥にある何かが私に小さく、でも確かに触れた。あ、待って、と追いかけた途端に消え、私は何を追いかけていたのか思い出せなくなる。なのに「追いかけた」という事実に私は、燃えるような羞恥を感じて、誰にも気づかれないよう息を呑む。彼は棚から抜いて詰んだ本のてっぺんに、その一顆を置いた。熱い、痩せた指の残像。
――それをそのままにしておいて私は、なに喰わぬ顔をして外に出る。――
(中略)
私はこの想像を熱心に追求した。「そうしたらあの気詰まりな丸善も粉葉みじんだろう」*
今まで知っていたどれとも違う小説がそこにはあった。1924年10月。梶井さんは22歳だった。
手のなかにある一顆をそっと籠の中に戻す。
信じている。
*梶井基次郎 檸檬より引用
*
「あれもほしー!これもほしー!」
閉店後の暗い町で、母親に抱かれた子どもが叫んでいた言葉である。半分は笑って、ふざけたように母親の笑いを誘う声音。
いいな、私も欲しいものをそんな大声で誰かに伝えたい、と羨ましくなる。
かしゅ、という音を立ててプルトップを開けるその人は、隣の焼鳥屋さんの前で赤ら顔だ。
町は春、清澄の四月。
さまざまに錯綜する手が溢れているこの詩人・清岡卓行による『手の変幻』は、まるで指を組んで伸びをした時のように気持ちがいい。
たとえば、ミロのヴィーナスの『失われた両腕』より抜粋。
―いや、もっと適確に言うならば、彼女はその両腕を、自分の美しさのために、無意識的に隠してきたのであった。よりよく国境を渡って行くために、そしてまた、よりよく時代を超えて行くために。
その後に続く、ちょっともズレない審美眼に、私はため息をつく。
―このことは、ぼくに、特殊から普遍への巧まざる跳躍であるようにも思われるし、また、部分的な具象の放棄による、ある全体性への偶然の肉迫であるようにも思われる。
(中略)
大理石でできた二本の美しい腕が失われたかわりに、存在すべき無数の美しい腕への暗示という、ふしぎに心象的な表現が、思いがけなくもたらされたのである。
萩原朔太郎の詩『この手に限るよ』や、マチスの『バラ色の裸婦』に対しての考察は、すごいなんてもんじゃない。
―空間へのある衝動のほとんど最大限の充足ではないだろうか?(中略)深い不透明、言いかえれば芳しい不動の空気を感じさせた。
イタリアの巨匠・アントニオー二の映画『太陽はひとりぼっち』に対しても同じ温度で見つめてる。私はほとんど嫉妬してしまう。
―本筋に関係のない微細なものこそ、かえって心のたゆたいを示すのである。ボートに乗って海の水に指をひたす冷たい感触とか、女が男にはじめて電話をかけたときに聞こえてくる話し中の信号音とかが重要なのだ。
女の手の表情 より
今回は先達にならって、手についての考察を冒頭でやってみました。
清岡さんのような冷静で豊かな目を、私は持ちたい。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
憶えていることは
それだけ
でももうすぐ
忘れてしまいそうな気配がする
またあしたって
友のかお
鳴くはずの烏も
忘れてしまいそうな気配がする
家からは
たまねぎとあつあげとにんじんと
とりにくとしらたきとさといもを
あまく煮たにおいがする
はっと気がつくと
夜にばっかりに出くわして
父のしわのよった
大きな手ばかり思いだす
憶えていることは
それだけ
あかねいろ 桜那恵
2021