20時間目「ブロッコリー・レボリューション」岡田利規 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

私はわが子を騙しているのではないか。

 

授かった生命を騙している。

 

息子と娘を騙している。

 

 

彼らは、順応している。

 

順応するわが子。

 

 

何に?

 

 

私と妻の、共有の価値観に?

あるいは、共有の倫理観?

あるいは、私のいる血縁関係、または、血縁者ではないが関係している関係が有する、共通認識? 

「人間はこうあると好ましい」という理想像? 人間性? 社会性?

 

そうかもしれない。

 

どれも言い得ているようで、すべて核心を微妙に外している気もする。

あるいは、どれをも内包したもっと巨大なものか。

あるいは、それは皮膚様の薄く透明なヴェールで、生後いつからか、まつわりついているのか。

 

わからないが、わが子はその「何らか」に順応している。

 

そして、私は、それを操っている気がしてならない。

 

いつの間に……

 

気づいたときにはもう遅い。

私は、いつの間にやら、わが子を騙している。

まったく不意のうちに、しかしみっちりと、ヴェールを掛けたらしい。

もう遅い。その利便性に浴している。

私は、残忍なしわざを、わが子に仕掛けて止まない。

よこしまな手ざわりが、ひたと迫る日もある。

 

 

殊に、息子。

 

彼は、割にお喋りが達者で、「賢い」などと褒められることもある。

親としては、それは誇らしい気もする。

 

しかし、私は冷たく、思う。

 

 

「息子は私の騙しに、引っかかってくれているだけではないか」

 

「そうして、その悪質をさらに根付かせてきたのは、この私だ」

 

 

息子が順応したことを、私が褒めたのだ。ほほ笑んだふりして、ほくそ笑んだのだ。

えらいぞ、よくやった、といったような、いかにも善なる父親による、といった風情で、その順応は評価されるべきものだと刷り込み、持ち上げ続けた。

 

私が息子を騙した。

そして、まんまと引っかかっている。私には、そう見える。

 

 

かく言う私にも覚えがあるから、そう思い当たった。

 

「俺は何か、騙されてきたな」

気づき、激怒した10代だった。

「ほんとうのこと」の発見もあったから、気づけた。

私は激怒とともに、「ほんとうのこと」を知り得た。

それは本からだった。

ちまたには「ほんとうのこと」が書いてある本と、そうではない本があることも知った。

「こんなに『ほんとうのこと』は、誰も教えてくれなかった」そういったありがたく、焦がれるような思いで読んだ本があった。

 

じゃあ、いいじゃないか。

簡単なことなのだ。子供たちも、同然にいずれ気づくだろうよ。

その本読ませりゃあ、いい。

 

たしかに、親が「順応させてみたものの、じつはこの人生は、地獄なのだ」と、子供に絶望宣言をして、異物・混入物を忌避し、自室を這いずり回って泣きじゃくって引きこもる、そんな不安な様子こそ、この親の実情をよく表す姿だとして、隠しだてせず……

 

「待て。それを子供に四六時中見せつけるのはどうだろうか」

 

あ、この疑義風のセリフ。ほら。きいたことがある。

「子供の発育にとって有害なものを子供に見せてしまうのはよくない」

「教育」?「子育て」? そいつのおでましだ。

「子供にとって、不安のない安心できる環境をつくり、見せていくことが親のつとめです」

試練を課すことで、まんまと、不安創出。

 

私は教育本という名の、自己啓発じみた説明書をね、いままで何冊つかまされたことだろうか。10じゃきかない。

 

「いいですか。子育て、ではなく、子そだち、ですよ」

「嘘。知らなかった。ガーン」

 

産んだが最後。イレイザーヘッド。

親、という決して逃れられない立場に縛られ、不安に駆られた我々を、追い立てるように、出るわ出るわ。ちょっと叩けば、私たち親たちは、ぼろが出る。あーらずいぶんとモンテッソーリなことでございます。

そりゃあそうだ。初めて行うこと、で、しかも、誰からも正式なものとしての教育を受けていないままに、私たちは親となってしまう。子供らは、臍の尾断って、巧妙に喚いて、どんどん巨大化してしまう。

 

ちくしょう。ハウ・ツー子育てだ? 

「私、合ってるよね? 子そだち、できてるよね? 正解は何ページに書いてあったっけ」

ゲーム攻略本と子育ての「攻略」を、同列に眺めてしまうことがお門違いである、というミス、うっかり穿き違えた私を、即座に

「私は、せっかちで、頭でっかちで、子供のことを、さずかりし生命を、地球よりも重い命を、軽々しく考え、自分のことばかり考えて止まない、馬鹿だ」

 

こう反省することができる、巧妙な無限自己啓発装置たる、私は、人の親。

 

 

今度はこっちに出た。

こうやって、やっぱり、私は、優等生。

 

「親は、ある日突然、親となるんだ。血縁・国家・自己実現欲求からもてはやされて。浮かれたところで、しかし、考えてみれば、子育ての教育を、受けていない。受けていないじゃないか。それなのに、自称教育家から責められなきゃいけないんですか。正しい親とは何ですか。教育家からプロの見地で、決定的な間違いを具体的に指摘されたい」

 

と。

怒ってみせて、学級委員根性が、まだ抜けない。ネズミどし生まれちゅうちゅう自己吸引じじい。

 

 

*   *   *

 

岡田利規の「ブロッコリー・レボリューション」を読んだ。三島賞受賞作。

 

大部分の文章が二人称を軸に描かれている。「君は……」、「君は……」と。

「君」が主人公と言えるかもしれないが、「君」のことを知っていて、「君」のことを語る人物は、別の人物=「私」である。

そうやって、この小説は、「私」の、「君」に関する妄想、というテイをなしている。

「私」が、「君」について、「君は今頃……」などと、始終、妄想するのである。

 

変な小説。

 

「私」についての言及はたまにしかない。

しかし「私」は、ひたすら、「君」について語り続ける。言語の限りを尽くす。

 

かっこなしの私、つまりこの自己吸引じじい・加藤は、読めば読むほどに、体内に暗いモクモクが入ってくるような感覚に苛まれた。読んでいて、こんなに空々しい気持ちになった小説は、初めてではないか、と思われた。「空々しい」、何度呟いたことだろう。饒舌に書かれたものを、読んでも読んでも、何も見えてこない。

 

でも、どんな小説だって、そもそも虚構であり、それこそ、作者の妄想の賜物だろう、だから、この小説が特別変わっているとは言い難いはず。

 

そう考えたくもなる。が、かなり異なる。

 

小説の読書というものは、ハウツー本みたいに、ただ読んで「へえー」と知識がつく、という単純なことではなく、かなり実際の体験に近いもののよう。

読者は、文字を読み取るだけなのに、案外、自由に、五感を使っているんじゃないかしら。

 

しかし、「ブロッコリー・レボリューション」、そうはいかなかった。

目が覚めると、見知らぬ手に顔面をとらえられている。しかも、たとえその手が幼子によるほどの微かな力であっても、押さえられると人間工学上、決して起き上がることはできない体勢にはめられて。

そんな絶望的な不自由さを吞み込まざるを得ない小説。私に痛みはないが、半ば呆れて、笑いがにじむような。

この暴力、他には知らない。もちろん、人称の操作による効果だ。

時折思い出したようにちらつく「一人称」は、俄然、生肉めいた鮮烈さを発揮する。

 

 

*   *   *

 

 

クラフト市に行った。わが子を連れて。

 

手作りクラフト市。客たちは、どこで聞きつけたのか、例によって、私の世帯に似た子連れがこぞって集まっていた。生活を愛でる者たちによる、人間性と社会性と平和の楽園。

ちょこまか駆けてはならない。そこには割れるものが陳列されてある。わが子は、よい子だ。

楽しい。楽しいだろう。子供には、ちょっとくらいは退屈か。こんなに文化的に楽しいことはないんだ。子供の遊ぶスペースも用意されてある。さて、どれを買おうか。ちょうど茶碗を欲していた。電子ジャーで炊いた飯を、食らうための専用器具が、大量に陳列されてあり、見ているだけで、目の保養。成金主義とは真逆、に見せかけることができる、地味で味わい深い、用の美に囲まれて寝食する、そんな少し上向きな新生活を希望する、善良な一庶民を、私に発見することができて、保養。

いい趣味。悩んでいるふりをして、ばかすか買うのも不義だから、見ているだけを決め込んだ者が、今にも食指を伸ばさんばかりゆえ、その欲まみれの指を隠すべく、後ろ手に組んで、ゆったり歩いてまわるのが、王道スタイル。

さて、キッチンカーで淹れたてのコーヒーでも購入して、一服がてら、子供のいられるスペースに行こう。あすこには、馬を模した遊具があり、乗って遊ぶことができる。乗って遊んでいる子たちに紛れている息子や娘のことも見てみたい。それをスマホで撮影し、親戚に拡散し、我々が質素だが文化的で健康的で幸福度の高い生活を謳歌していることを認めてもらうことをしたい。決してきらびやかとは言えないまでも、見る人が見ればわかる、某アウトドアメーカーのウィンドブレーカーを羽織って、無邪気に笑い合う子供らに、そこにわが子を見出せば、きっと死の恐怖でやさぐれた心を重くぶら下げた彼らにも、一抹の化粧水ばかりの潤いを与えることも叶うだろうから。

 

「さあ」

と、息子を顧みると、いるべき場所に、息子がいない。

 

子の不在に気づくと同時に、叫び声が、私の耳をつんざいた。

 

ぎゃあああああああああああああああああ…

 

それは悲鳴か、嗚咽か、はたまた、怒号か。

クラフト市にあってはならないものであることは確かだ。

 

ぎゃあああああああああああああああああ…

 

割れんばかりの叫び声の主は、息子だった。

 

いや、娘のものでもあった。

また、知らない子のものでもあった。

 

泥の上を行く子供たちは、緩やかに集団となり、叫び合った。

 

叫び声をあげ、泥に足を取られつつ、スローモーションで追いかけ合った。

どちらが「追いかけっこしよう」という意思表示をしたようには見えないのに。

そして、まるでくすぐり合っているかのように、狂騒的な笑い声をあげ、また叫んだ。

 

ぎゃあああああああああああああああああ…

 

叫び声が、折り重なっていく。

 

彼らは、私の支配を超えて、世界の外へ飛び立つかのようだった。