16時間目 無限誕生「貝に続く場所にて」石沢麻依 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

子供が寝ている隙を狙って、妻と映画を観た。

「これは傑作だ」と、ふたりして涙ぐんで、

立ち上がって、トイレへ行ったり、コーヒーをいれたり。

それぞれ思い思いの形で、余韻に浸ったりして。

そうして、再集合したりして。

しみじみとした風情で、感想などをすり合わせる。

 

……果たして、これがどうもすり合わない。妻の話でようやく事の真相を知る。

つまり、私がまったく間違って観ていたらしい、ということが、あったりする。

作中何が起きたのか理解しないまま、観終えてしまった。

しかもまたおそるべきことには、私は、いたく感動しているのだ。

 

たとえば、現在と過去とを頻繁に往来する設定として描かれていたところ、

私はずっと、現在ばっかりを観ているつもりでいた。

たしかに実際、チンプンカンプンだった。だのに、「こ、こりは、けっさくだべえ」と抜かし、

しかも、心底感動して涙を流し、清々しそうにしている。

 

妻には、「まったく、世話がないね」とあきれられる。

私は感動したあとだから、心がきらきらしているので、終わり良ければすべて良し、

などと言って、屁をこいて、救われている。

 

 

観ている最中、私はどう感じていたのか。天然ちゃんの脳内。

興奮が渦巻き、天国への螺旋階段を勝手に駆け上がってしまっていた。

「なんだかよくわからないけど、スゲー!」といった感想しか出ないような、

 馬鹿になり、虜となり、舞い上がっていた。

 

そんな我が家にも、つい先日、2人目の子供が産まれました。

どんな話の流れじゃい。

赤ん坊を見ていて、飽きることがない。

ぐにゃぐにゃと顔を歪ませたり、腕を伸ばしたり曲げたり、変化に富む。

刻一刻と、細胞分裂とその成長が凄まじいスピードで発揮される様を、私は見ているのだろうか。

 

赤ん坊は、モノではない。ヒトだ。当たり前だ。

モノかどうか、という定義は、有限か無限か、ということかしら。

この定義づけは今、考えた。

いや、人間に無限など、あり得ない。命あるものは、必ず死ぬ。

だが、生まれたばかりの我が子を目の前に、そんなことを意識する親はいるだろうか。

 

出生届を出しに行き、役所の人から、保険証を受け取るときのこと。

「裏面にはですね……えーと……」

その男の人は、口ごもった。

彼の後ろの人たちも、にわかに腰を浮かし、こちらを注視する気配がした。

そういえば、保険証の裏面には臓器提供の意志表示ができる欄があった。

「お生まれになったばかりで、こんな話もおかしいのですが、まあ、念のためです。

 意思表示をすることができますよ、というものでして」

「あ、まあ、はい」

私は少しムッとして聞いていたかもしれない。

だとしたら、申し訳ない。気苦労の多い仕事であろう。

しかし、改めて、「わが子」というのは、親からしたら、無限だからな、と思う。

モノではない。

だからか、「傑作だ!」と思うのとは違う。

感動はした。たしかに、赤ん坊が産まれたとき、感動した。

それは、妻の頑張りに、そして、赤ん坊の頑張りに感動したのだ。

無限の可能性を秘める生命。

生命を前に、私は「感動した!傑作だ!」と言うほど、客観視できない。

なぜなら、私も生命の側にいる。私もまた、生命に(が?で?)動いている。

生命ってすごいなーと、無理やり思おうと思えば、「たしかに神秘だよね」と思うこともできるが、

思わないのに、生命やれている。生命やってる? やってるやってるー。

 

 芥川賞作品「貝に続く場所にて」を読んだ。

「なんだかわからないけど、スゲー!」という、相変わらず馬鹿みたいな、私の読後感であった。

 ネタバレというほどのものではないだろう、

 あらすじを言ってしまうと、2011311日の津波に流され死者となったはずの人物が、主人公を訪問する。

しかも、その場所はドイツのゲッティンゲン。

しかも、主人公とその人物の関係性は、あまり深い、というほどでもない。

しかも、主人公は、震災当時、宮城で大地震の被害に遭ったのだが、

死者のように、津波の被害を受けたわけでもない。

しかも、描写する際、辞書に載っている言葉を再構築したような言い回しで表されるから、

主人公が宇宙人のようにも見える。

よって、この物語には、一見、必然性がない。

なのに、そこに必然性を見出したくて、探して読もうとするのが、私だ。

それは読者の宿命だ。暗中で腕を動かし何かつかもうとする動きだ。

物語性を自ら否定する作品群を前に、何度も何度も繰り返してきた、もはや陳腐となった、あの動きさ。

その動きは、あの時をどういう形であれ経験して、死なず、今生きている関係者全員、

つまり、だいたいの日本人全員に言える一面で、主人公はその象徴なのかもしれない。

いや、読者となっている私こそが象徴化されているのかもしれない。

あの震災から今につながる、何らかの思いの跡みたいなものをなぞろうとしているのかもしれない。

 

 この作品は、まるで無限であろうとしている。チャンチャン♪ という幕引きがない。

作中、「2001年宇宙の旅」を勝手に連想したものだが、キューブリック作品特有の、

あの残酷なまでの、チャンチャン♪と切り捨てられちゃう、

あの素晴らしいエンドロールに類するものは、ない。

ゆえに、有限好きの私の口からは「傑作だ!」とは、言いがたい。

が、そんな私の好みというちっぽけなくくりなんかどうでもいい、

破壊し、無限のスケールで広がっていくのだろう。

 

無限の、わが子とともに。