見ると、私の靴下の布地から、毛がはみ出ているではないか。
決して、見られてはならぬ。
ずり落ちた靴下を上げれば済む問題ではない。
shin hair(脛毛)が靴下の布地の間隙をねらって、飛び出てきているので、
これを解決するには、繊維の高密度な靴下に履き替える必要がある。
が、それが根本的な解決になるとは、言いがたい。
抜本的な解決を目指すのなら、脛をつるっつるに剃ってしまうべきだ。
それは私には恥ずかしいことだ。
ちょっと前の夏に、半ズボン、それも股下の極めて短いものが男性にも流行したが、
つるつるすべすべの脛を曝すことで、そこから地続きの、
下肢総体も、つるつるすべすべになっているのではないか、と想像された。
脛をつるすべ、にするくらいの精神性の持ち主だから、これは見当外れの妄想ではなかろう。
が、私は、世間のなかで生きているし、世間にそのことを意識させ続けて平然としていられるような
度胸の持ち主ではないがゆえに、恥。
恥。これを感じるので、私はやらない。
日本男児の半ズボンは、小学生まではいかにもふさわしいが、
中学、高校と、思春期・反抗期、心身の発達を通ったはずが、
体毛を処理してまで過度に短いズボンを穿く場合、
それはもはや、極まった自己愛のグロテスクな形であるように思えてならない。
自己愛ゆえに、自己を整えることに夢中で周囲への配慮が至らない、という理屈、
が通るのならば……、いや、そんな人間は、きっと世間には存在しない。
自己を愛するのであれば、他者からも愛されるよう、
そのあたりを整えるのが社会的人間の営みとしては求められて然り
(なぜなら他者を通して自己を愛した方がより説得力が強い)。
反して「他者との関係などどうだっていい」と、ポーズはとってみたところで、
心の底からそう思える人は、きっと、いやしまい。
なぜなら、激しいファッション性を発揮する彼らの、
他者からの視線にさらされている状況での、凍り付くほど日常的すぎる日常の諸場面において
(たとえば、バスの停留所の列で)、
彼らの視線はじつにおどおどとした、自信のないものになっているのを、
こちら側の人間は皆よく見て知っているのだから。
だから、先ほど述べたように、
それでも極短半ズボンを、二十歳を過ぎた日本の男性が穿こうとでもいうのだから、
いよいよ増して、世の男性諸君の度胸がついてきた証、なのだろうか。
体毛を剃る、という行為によって他者への配慮が見て取れるものの、
それこそが他者のためになっている、
つまり、自ら磨いた美によってこそ、他者に目の保養を与えるのだ、
と思い込んで、のものだろうが、それよりも「恥」とは思わないものか。
まあ、若気の至りとはそういうものさ。そうだろう。
「一度やってみれば、良さがわかる」
そういう声も私には聞こえてくるが、
私は、遺伝・武道・座禅・武士道精神とで鍛えられた、
完ぺきなまでの日本ジェントルマン体型で、脚は短く太く、さらに外側にわん曲し、
袴を穿いてすり足、したいところを止む無く太いズボンを穿いて西洋風に歩くふりをしているのが実態。
どだい無理である。
ところで、スキニージーンズ流行時、私も例にもれず、スキニーを穿いて、
周囲に、この私こそが、前述したような懸念、侮蔑、苛立ち等々を抱かせていたことは、
大変申し訳ないことであり、わが加藤家史上の赤っ恥、
これから初めて付き合う人には絶対に内緒の話である。
だから、私は靴下の布地から毛が、ちょこちょこっとはみ出てきているおぞましき有り様を、
恥じつつも、脛をつるすべにする方がもっと恥ずかしいので、それはしない。
高密度な靴下に買い換える金など、あるわけもない。
脚をできるだけ早めに動かすことで、他者からの注視を避け、やり過ごしている。
しかし、旅においては違う。「旅の恥はかき捨て」という。
これは、旅先には周囲に知り合いがいないのだから、恥をかいてもその場限りのものとなり、
平気で大胆なことをしがち、というものだ。
ことわざのとおり、私も、旅先では普段はやらないようなことをしてしまう。
羽目を外してしまう。
高校の旅行でカナダへ行った際は、サングラスを買って、こともあろうか、闊歩してしまった。
大学時代、いずれ妻となる、彼女と恋仲の頃、京都旅行。
2泊程度のつもりが、「あと1日」「もう1日」と延び、1週間の滞在となった。
持ち金は軽く吹っ飛び、祖母からもらっていたかなりの大金も、遣い果たしてしまった。
青森の音楽フェスでは、ギターウルフに壇上に上げてもらう、という僥倖を得た。
泣きじゃくりながら、ギターをかき鳴らして、踊り、狂乱じみてしまった。
10余年もの前、いずれ妻となる彼女と別れた傷心旅行という名目でも、やたら旅行をしたもので。
本当に傷心でボロボロだったころ、よくわからないまま三島へ。
仕方ないからスナックに入り、「彼女と別れたので来ました」と脅し、マスターにおごってもらった。
京都へ彼女の面影を探して行くも、もち料理を食べ過ぎて、気絶した。
新潟ではバーと美術館に通ってやたらにナンパ、つまり、女性をたらし込もうとした。
金沢ではなぜか人の家で西瓜をごちそうになり、「一宿一飯の恩義」と言って、
そこにあったアコースティックギターをかき鳴らし、家族総勢6名ほどの中心で、
ジョンレノンの「ウォーイズオーバー」を歌った。
白けているのもかまわなかった。
また、私はアウトレットモールが大好きだ。
あれは、よくできている。あれには、やられている。
首都高の渋滞を経て海ほたるを通過すると、だだっ広い木更津の土地が広がり、旅をした感が出る。
旅先では、「恥はかき捨て」。
しぜん、行動は大胆になる。多量の服が、しかも廉価で売っているとなれば、買いあさらずにいられようか。
まんまと、やられている。
このように旅先で、私はまったくの恥知らずである。
列挙しながら、自分がほとほといやになった。
きっと旅先でなら、私は半ズボンを穿くだろうし、脛だってつるすべに剃ってしまうのだろう。
私だけではない。きっと、あなただって、
旅先では、一流ブランドのべらぼうに高価な財布を購ってしまったにちがいないし、タトゥーシールを貼ってしまったにちがいない。
川端康成にしては、珍しい、自らの体験を材にとった作品である「伊豆の踊り子」。
旅をする中で、出会い、そして別れがあるわけだが、きっとこの二十歳の主人公も「旅の恥はかき捨て」を実践している。
踊り子に一目惚れし、同行し、言葉を交わし、デートの約束もし、風呂までいっしょに入っている。
作中、いわく「孤児根性」、に苛まれ、自省の旅に出た主人公は、出会った踊り子に、心を開き、大胆になっていく。
「男はつらいよ」のような構造だが、
主人公は、もっと、青い。とてつもなく青く、また、透き通っていく。
*
旅先に見知った人がいないことが旅情に影響するのは、わかる。
が、旅にはきっと、生活現場の時間とは別の時間が流れている、
ということもあるように思う。
旅人の時間感覚は、実生活での認識とはぜんぜん別物となる。
この、縛られるような、うんざりさせられるような、そんなマンネリズムの日常を、いったん切り離し、
非日常に自己の存在を開放することで、たとえば「永遠」とか、「夢」とか、
そんな非現実の時を生きることができる。
私の感覚だが、旅行の計画の話となると、「あ、あのゆったりした、向こう側の日々」とうっとりする。
「向こう側」の日々に、たとえば、6~7年前くらいか、鹿児島の旅がある。
そこには祖父母がいて(どちらも今も健在)、砂風呂に最後まで埋まっていた祖母の、あの嬉しそうな顔や、
祖父の喫茶店で他の客をいちいち品評、「あの女のコ、まだ10時なのにカレーを頼んだよ。昼まで待てなかったらしい」という、あの得意げな言いざまが思い出され、彼らは明るい陽射しの中、ゆったりと揺れている。
また、たとえば30年前くらい、伊豆に泊まって、父母と弟妹とでマレットゴルフをした際、
妹が振り上げたクラブが父のおでこに当たり、
父が「ちょっと切っただけだ。大丈夫」と言うも、大出血。
妹がそれを見てわんわん泣き、「わざとじゃないんだから、しょうがないよ」と、
皆でなだめるも、妹の発作じみた泣きじゃくりと、父の出血が止まるのを待っていた、あの昼。
あれらが思い出され、彼らもまた、明るい陽射しの中、ふわふわと、たゆとう。
それらの明るみに、「私」もいるのが見える。
「こちら側」=「日常生活の私」が、「向こう側」=「旅の私」を、少しは客観的に眺めることもできる。
「こちら側」の私は、「向こう側」の私を羨ましく眺める。
「向こう側」には、「こちら側」の1秒とは、無関係の1秒が流れているが、
「こちら側」から見ると、ほぼ止まっているように見えるか、思い出として、無限に再生可能で、それらは明るみの中、老いを知らず、生き生きとしている。
こちら側の私は老いていくばかりだ。
各人のparallel world(並行時空)は、日常生活と、旅先の時空とで、勝手ながらすでに存在するようだ。
切り離された時間における非日常は、理想郷、桃源郷、永遠、天国、不老不死。
そういう風に、胡散臭い名前で、切実な気分で呼んで、すがりつきたくなる。
かつて死んだあの人たちも、向こう側にいる。ありありと見える。
遺影に見た、どうもしっくりと来ない、あの顔ではなく、ありし日に親しんだ、あの微笑でいる。
*
今回、「旅の恥」についてべらべら喋り過ぎてしまいました。
最後に言いたいのは、とはいえ私が言うまでもないことですが、
この作品は完璧、ということです。
この小説をうごかす動力は、主人公「私」と、「踊り子」とが、出会ってしまう、
その磁界の強さにあります。
磁力は、引き合う場合と、反発し合う場合とがある。
しかし、東京での学生生活という日常に帰らねばならない「私」と、
生まれてこのかた定住の地を持たない、さすらうことが日常の「踊り子」と。
生活の現場がまるで違うふたりにおいては、すでに磁力が発生しているのに、
ひかれあってしまい、そして、いや、しかし、……
……しかも、彼らは、青い、青い、青い、じつに、青く、そして、さらに青く、ついには、透き通っていく。
私の、旅をしていない、日常の時間にも、歪みをきたす、磁力。
*
また旅をして、恥をかきたい。そんな今日この頃です。
〈プロフィール〉
加藤亮太 1984年東京都葛飾区生まれ。中学生のための学習塾「カトウ塾」塾長。
2007年 バンド「august」結成。2008年 映画製作「new clear august」「ガリバー」「自棄っ鉢にどでか頭をぶッつける」等。
初小説「ことぶきの日」(同人誌『新地下』創刊号)。日本映画学校入学。2011年 小説「催促の電話」「冷製玉手箱」。
某大手塾にて塾講師。2012年 小説「わが遁走」「ダイヤモンドダスト」。
塾設立を企図。2013年 小説「狂犬病予防接種」「表層」「観賞」。バンド「オガアガン」結成。2014年 小説「かかし」。
某メーカー勤務。2017年 小説「弟の車」。2018年 小説「オメデトウ」。
2019年 独立、開業。
(※ すべての映画・小説は新人賞を落選し、すべてのバンドは解散した。)
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