約三年間、私は段ボール製造の会社に勤務していた。段ボールどころか製造業自体全くの未経験だったので、製造業とは何なのか、段ボールとは何なのか、これを営業部員をしながら学んでいくことになったが、いや、その前に、営業だって未経験なのだ。営業とは何なのか、外回りとは何なのか。とにかく学ぶことの多い日々が、まず、続いた。得意先からは「何だか、似合わないね」と言われた。つまり、当然のことながら、私は社にとっては全くの足手まといなのだ。で、少しわかりかけてきた、入社半年した頃だった、今度は総務部・情報システム部へ配属された。総務部では経理関係の仕事に関わった。経理に関しては簿記3級を持っていたのだから、まだ、少しは役立てそうだった。また、いちプロジェクトのため新しく立ち上げられた部署である情報システム部、そちらが私に任されたメインの仕事だった。そのプロジェクトとは、段ボール製造のすべてに関わる基幹システムの、旧ソフトから新ソフトへの移行という仕事だった。パソコンの操作に少しは通じている私に任されたのだった。関東から東北にかけ4工場を有する会社である、移行はネットワーク上で行われる、といっても、実際に現場で運用する、取り扱うのは、機械化がいくら進んだとはいっても、やはり半分以上が人間であり、私なんかよりずっと段ボール製造に接してきた人たちが、突然入ってきた小僧である私の指示のもと、彼らのできる限り腑に落ちる形でのシステム移行を完了させ、運用する。これが一番の難題で、私は文字通り、飛び回った。常磐道を何往復したことだろう。で、なんとか、社員や取引先の理解と協力があって、それは実を結び、4工場すべてのシステム移行は完了。日々の運用も、だんだんと軌道に乗る塩梅であった。
とはいえ、私にはどこか、乗り切れていないところが、あった。乗るどころか、始終、他人事なのだ。
なぜなら、私は、じつは、他のことがしたいのだった。
事もあろうに、小説を書きたいのだった。それも、文學界新人賞、すなわち、芥川賞を狙っていた。
宮仕えの身で、しかもまだ下っ端の青二才が、一刻も早く会社の利益に貢献できる一人前になるべく、懸命に自己研鑽すべき。
そんなときに、私はよほどのことがないかぎり、いや、よほどのことが起こる前に、と、定時の17時半から2時間以内を目安に、まだ機械音が唸りを上げる社を飛び出し、ファミレスみたいな喫茶店にて、書きたいものを、書いていた。
妻の待つ家に着くのは、23時過ぎで、温めなおしてもらって、手料理を食うのであった。
結婚してまだ三年も経たないが、妻には「これだけは譲れない俺の真の生活だ」と、言い含めておった。
約1年かけて、とうとう書き上げた。パソコンにて打ち直し、キンコーズ西新宿店にて印刷し、校正を重ね、いっちょまえに、作物として、新人賞係へ送った。この送付の瞬間は、言いようもないものがある。
が、かような私も、脳天気ばかりのヤワではない、すぐに次の作品へと取り掛かり、その賞が失格となったとしても、それがどうした今度で獲る、という意気であった。
それに、やっぱり、小説を書いているだけで飯が食えるようになるなんて、夢のような話で、そんな夢、つるっと、叶うわけがない。何度も言うが、夢のような話だ。
しかし書くことは、私にとって、「これだけは譲れない俺の真の生活」であって、じかで触る感触のある、私には、生々しい現実だった。
例の小説は、例のごとく、落ちた。選考には、かすりもしなかったようだった。
私は、そのとき、妻とともに福島県に転勤し、住んでいた。しかしその日は、始発の特急列車で都心に出向き、得意先が催す研修を1日かけて受けて、夕方、とんぼがえりで戻ってくる。
研修会場へ向かう途中、東京駅の駅構内の書店にて、新人賞発表の号の雑誌を手に取り、ケチって立ち読みで確認するよりか、買ったほうが、受かるかもしれん、と、購入し、店外を数歩。
開くと、やっぱりそこには、私の名前を発見することはなかった。「はー、あ」とわざとらしいため息をひとつ。少し眼球を落っことしそうな、全身の前転の衝動を感じつつも、すぐと思い直して、私は研修を受けた。
休み時間に、古い岩波文庫の、薄い、徳田秋声を、膝の上で読んでいた。講師であり得意先の担当者でもある、スーツも髪型もきちっとした印象の50がらみの男が、私めがけてやってくるのが、黒い靴の細く輝く先端で、わかっていたが、私は顔をあげなかった。
* * *
システム移行の後の、私の仕事は、新たに、新入社員採用係、原料調達係、工場増築へ向けての工場長補佐、だった。さらに、近々営業もやるらしい、ということが、私にまつわる噂として、別の社員から聞かされた。今のうちにゴルフをやっておけ、とのことだった。さすがにめまいがする思いだった。工場長からは、
「増築に携わるなら、現場のことも知らないとなあ」
とのこと。私はフォークリフト運転技能の講習を受けた。時代錯誤的な、やたら怒鳴り散らす教官だったが、私の運転の下手さにはほとほと呆れて「あんちゃん、悪いことは言わねぇ。危ねえからやめとけ」とのことだったが、叱咤激励と受け止めて頑張ることが、「現場のことも知らないといけない」私には不可欠な行動なので、どうにか、こうにか、這々の体で、免許取得に漕ぎ着いた。
工場に戻って、ちょっと練習に、と乗ってみたら、リフトの足元が、パレットにうず高く積まれた段ボールシートを、すっと触れた。ぎょっとして、見てみると、リフトが通ったとおりの跡がくっきりついていた。つまり、製品を数十枚、壊してしまっていた。写真を撮り、始末書を書いて、私が開発に携わった、「ロス報告システム」に入力した。これで、離れた本社でもリアルタイムで、私の作った分の不良品が、その画像とともに、知られることだろう。旧システムではなかった、とても優秀なシステムである。
車に乗っての道すがら、エレファントカシマシの、いろいろ入ったベスト盤CDを聴いていた。といっても、いつもかなりの音量で流し、そして、聴くというより、自分がボーカルになったつもりで、歌っていたのだ。
音楽はいい。歌っていれば、眠気も吹き飛ぶし、なにより、その歌の爽快な気分に乗って、いつのまにか、いやな時間が過ぎてしまうのだから。会社から帰宅の途につき、小説へと向かう当時の私には、切り替えのスイッチとして、不可欠なものだった。
とくに、エレカシは初期の曲は、よく歌った。「待つ男」や「奴隷天国」なんかは、声が枯れるくらい、痛快に叫んだもので、誰かに聞かせてやりたいくらいの上達ぶりだった。上司に連れて行ってもらったスナックで、一度「奴隷天国」を歌ってみたら、期待していた非難をすら、されるどころか、誰も聴いちゃいないようだったが。
ロス報告の後も、いつもどおり、がなり声をあげていた。爆音を鳴らしても、ここは福島県の工業地帯。周りには軒並み、轟々と唸りを上げる工場と、また轟々とエアコンの機動音凄まじいパチンコがあるばかりで、ひとけはほとんどないのだから、私は容赦なかった。
と、とつぜん、(アレ?)声が出ないのだった。
風景がぐにゃっと砕けて、(危ない!)次の瞬間、頬に、熱いものがぼとぼとと落ちた。喉元を硬く重いものがこみ上げ、しゃっくりを感じ、ようやく私は、自分が泣いていることに気づいた。
(ええい、なに糞!)
(そんな、女々しい、こみあげてきた感傷なんか、叫んで散らしてしまえ!)とばかり、むしろ勢いづいて、エレカシの何の曲だか、しらないが、曲に乗せて叫んでいれば、いつもどおり、過ぎ去ってしまえるはずだった。
2番の「夢だきゃたくさん持ってるぜ、やりたいことが、たくさんあるのさ」のところだった。
すると今度は、もっと強い衝動につかれ、私はウッとしゃっくりをあげ、二の句が継げないのだった。
アクセルを緩めて、ようやく、乱暴な衝動にとりつかれていた自分を、抑えることができた。
* * *
「いのちの初夜」は、このとき私の感じていた、「俺は違う」を隠して勤務していた、あの鬱屈とした気分と、さらに、「これが真の俺だ」と思っていたものにこそ、徹底的に否定され打ちのめされていく現実、それへの絶望感、そして、不意に圧倒されることとなった、エレカシの「男餓鬼道空っ風」の歌詞世界、直面する困難によってがんじがらめになりそうで、ちくしょう、とヤケになりそうなところを、いや、全身で真っ直ぐに突き進んでいきたい、「魂」と呼べるくらいの、自分のほんとうの情熱、その情熱を追求すること、つまり「魂」の復活、それへの讃歌、とでも呼べる、生々しい血潮のうごめきがある、23歳という若さで夭逝した作者による、命がけの、不朽の名作である。